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2006年2月6日
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「学ぶ」という事 1
いつも日記を書く時は「書き出し」に苦労するが今回もどの様に書いてよいか書き始めるまでに3日かかった(笑)
それは最近考えている「学習する」という事だ。学習とは何なのか上手くまとまらなかったが、朝起きた時に何故かふとまとまった。その時に書けばよかったのだが寒さのためもう一眠りしたのがまずかった。
今日はそんなまとまりのない日記です。
「学習する」「学ぶ」という行為は人間にとって重要な要素になる。基本に立ち返って「学ぶ」というのは、どの様な状況なのか。 基本的に今、自分自身が知っている事を教えられても「学習する」とは言わない。人間は自分自身が知らない未知なものを教えられた時に初めて「学ぶ」という行為をしている。また同じ事を教えられても自分自身の中で新たな認識が産まれた時も「学ぶ」という行為をしている。 しかし「それ知っているよ」と新たな事を話していても自分自身の今まである経験や認識や知識に当てはめてしまうと「学ぶ」事にはならない。
これが非常に学習の過程では邪魔になる!!
意拳では「体認」というもの重要にしている。 体認を言葉で説明するのは難しいが、簡潔に説明すると「自分自身の思考の過程を介さずに身体で認識(感じた)した、そのものをそのままにしとく」 思考の過程を介さないので自分自身の経験、知識、認識は入り込む隙間もなく、全てが新たな認識として受け取る。 中国のことわざにもあるように「同じ河は渡れない」というのと同じで、時間は一軸性に経過している。「これは知っている」といってみても実は新たな経験なのだ。 例えば同じ本を読んでみても印象が変わっている経験がある。これは物質である「本」が変化したのではなく、自分自身が変化したため印象が変わったのである。
人間は「体認」により様々なものを学習している。食べても良いものダメなもの。安全か危険か。その人の行動や言葉は全て、その人自身が表現されている。
続きは第二部へ・・・
明宏
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