Diary(日記)

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2006年2月7日

「学ぶ」という事 2
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今日はみぞれみたいな雪模様!!
それでは第2部

意拳の練習をしていておもしろいのは、この学習できる人(体認できる人)と学習できない人(体認できない人)がいる事だ。

もちろん先生は同じ事を話しているが、受け取る側が基本的な「学習する」という事がわかっていなければ学習しているつもりでも学習できていない。

もう一つ、意拳ではコミュニケーションを大事にしている。韓競辰導師の所へ行っても半分ぐらいはお茶を飲みながら拳学の学理や中国思想の話、また様々な質問を受け付け、問題定義する。
 「武術の練習」というとただひたすら練習をするというイメージがあるが、韓氏意拳ではしない。まずは先生の考えや学理を理解しないと練習をしても何も伝わらないからだ。形や練習の順番、技術を憶えたところで実際には使えない。
 「伝わる」というのは先生の考えから、今何を思っているのかまで理解できる事だ。それにはコミュニケーションは欠かせないものになってくる。

意拳ではこの「コミュニケーション」により自分自身の認識が変わって、考え方まで変わってくる。そして新たなものを学習し「体認」していく。
 練習をしているとおもしろいが、先生の話を聞き、質問して話を聞く。このことだけで動きの質が、明らかに変わってくる。
 
「一形一意」というのは意拳の四大原則の一つだが、思考の関与が入り込まないと心(精神や考え)と体(肉体や行為)は常に一致して働いている事を感じさせられる。
現代の人は、どうしても思考の関与無くしては動けない。しかし原始的な働きや日常動作などは常に「一形一意」で動いているのがわかる。

話はかなり逸れてしまったが「学習」に戻す。
「学習」している人は常に変化し、考え方や行為(運動)も変化している。自然の働きを見ているような印象を受ける。

カイロプラクティックも意拳と同じ事が言える。
常に真剣に患者さんに向き合っていると様々な発見がありとても楽しい。セミナーを受講しても新たな発見があり楽しい。
 また同じテクニックのセミナーでも何度受講しても何らかの発見がある。(僕が見落としていたのか憶えていないだけか)
 この新たな発見や気づきがあるのはカイロプラクティックでも「体認」しているからだ。使っているテクニックは変わらないが、様々な事を学習するたび変化している。

これからもこの「学習する」という事を大事にしていこう。





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